本年開催の第35回レモン展出品作品の中から早稲田大学創造理工学部建築学科 風間 健・鈴木雄介・保井孝一さんに制作中(うごめく小さなストラクチャー)の思い出などを振り返っていただきました。
3人で行う卒業設計卒業設計を始めるにあたって、まず決めなければならないものは何でしょうか。敷地、社会的問題、あるいは理想とする空間イメージなど、人それぞれに取り組みの起点があると思います。その中で、私達は独特な出発点から卒業設計を始めることを強いられていました。それは「誰と卒業設計を行うか」というものでした。
私達の大学では、卒業設計に取り組む際、3人1組のチームであることが必須となっています。その際、チームのメンバーは異なる分野を専攻していることが求められます。3人の専門分野によって計画へのアプローチは大きく変わっていきますから、3年次の終わり、私達の大学の学生はこの「チーム決め」というイベントに頭を悩ませます。
私達は「意匠」「生産」「環境」という構成で卒業設計に取組むことになりました。それが決まったのは1つ上の先輩方の卒業設計を見届けた後で、2月の終わりか3月のはじめ頃だったと思います。
東日本大震災その矢先の3月11日、東日本大震災がこの国を襲いました。この出来事は、私達の卒業設計にも明らかに強い影響を与えるものでした。
地震の直後に訪れた新宿駅の光景を私は忘れることができません。そこにはあまりに沢山の人が溢れ返っていました。電話やメールが繋がらなくなり、皆が自らの判断だけを頼りに行動することを余儀なくされていました。
この集団的パニックを目の当たりにすると同時に、私の中には現代の都市に対する疑問が芽生えました。あの地震で、東京は大きな破壊を被った訳ではありませんでした。それでもインフラストラクチャーの一部が麻痺しただけで、あまりにも多くの人々の生活が成立しなくなってしまった。その事実を前にして、現代都市のシステムは破綻寸前のところまで来ているのではないかと思うようになりました。そして、転期を迎えたこの都市と、そこでの新しい生活像を描きたいという考えは、卒業設計を終始貫くテーマとなりました。
卒論と専門分野震災の混乱の続く4月、私達は卒業論文のための研究に取りかかりました。私達の大学では卒業論文も必修科目であり、11月まではそれぞれ個人でその執筆に取組むことになるのです。
前述の通り、専門分野が異なるため、研究内容も当然全く違うものになります。一名が建築の生産工程に関する研究を行う傍ら、もう一名が木造住宅のCO2サイクルに関してリサーチを行い、さらにもう一人はアメリカの建築家の作家研究を行う、といった日々が続きました。
卒業設計への取り組みとしては、定期的にミーティングを行って各自の研究内容の進捗を報告しあっていました。3名ともそれなりに専門的な研究を行っていましたが、なんとかそれを卒業設計でも活かしたいと考えていたためです。各自の未熟さもあり、内容を深く共有するのは中々難しいものでした。それでも内に籠りがちな研究期間の中で、このミーティングは良い刺激として機能するとともに、卒業設計へのモチベーションを引き立てる働きをしていたと思います。
敷地選び11月中頃に論文を終えると、いよいよ本格的に卒業設計の作業がスタートします。この時点で私達は未だ計画敷地を決めることが出来ずにおり、その選定が急務となっていました。
3人で取組む計画である以上、その舞台となる敷地に関して合意が得られなければ話になりません。東京やその近郊の土地を色々と見学し、結果として豊島区雑司ヶ谷の一帯を計画地とすることに決めました。
当時の私達にとって、雑司ヶ谷という場所には不思議な魅力のようなものがありました。例えば航空写真で見た時にインパクトで勝る場所は他にもありましたが、それとは違う次元つまり実際赴いたときに始めて分かる、一種独特な雰囲気を感じたのです。雑司ヶ谷霊園や鬼子母神のような土地の歴史を今に伝える場所があって、その間を都電荒川線という小さなインフラストラクチャーが貫いている。その一方で空地の増加による街の空洞化や、再開発による風景の均質化によって、その場所性は危機にさらされている。このような状況に託して3月11日以来少しずつ考えていた建築的ストーリーを描いみたいと思ったのです。
設計のプロセス敷地が決定し、ようやく設計が始まる訳ですが、その際に重要だったのは、とにかく3人の意思の統一を図り、情報を共有することでした。例えばどんなに面白いアイデアを発見してもそれがチーム内で共有されなければ次のステップへと進むことは出来ませんでした。そのため必然的に考えたことを文章にしたり、イメージをスケッチしたりすることに大きなエネルギーを割くことになります。そしてそれらを毎日持ち寄り、議論し、少しずつ計画をかたちにしていくのです。
多くの人が抱くであろう「卒業設計」のイメージからすると、これは随分奇妙なプロセスのように思われますが、私達にとってはこれが宿命のようなものでした。毎日決まった時刻に行うミーティングは苦しくもありましたが、同時に楽しいものでもありました。メンバーの誰かのアイデアで急に案が進むことがあり、その時の高揚感はこれからもそう簡単には得られないものであると感じています。
完成した計画とプレゼンテーション設計の骨子がまとまったのは、提出の約一ヶ月前であったと記憶しています。結果として出来上がったのは、敷地一帯の空地に建設される小さな移動建築物たちとその拠点となる施設で、それらが地域で共有されて生活インフラとして機能する、というアイデアでした。
プレゼンテーションにおいて特に意識したことは2点ありました。ひとつは都市から1つの小さな建築物までという、幅広いスケールを計画したことを示すこと。そしてもうひとつはそれぞれのアイデアが単なる意匠の思いつきではなく、エンジニアリングによる裏付けがその背後にあることを強調することでした。そのために、模型は 1/500, 1/200, 1/50, 1/20 という複数のスケールで製作し、図面表現の中では矩計図や部材表を最も重要なものとして位置づけました。
今となってみれば、その手法には功罪あり、アイデアの核を上手く示せなかったり、空間的な面白さの追求が未然のまま終わってしまったのも事実でした。多くの先生方や先輩方に「結局何がしたいのか分からない」「空間がつまらない」と指摘され、度々悔しい思いを味わったりもしました。その他にも沢山の反省点はありますが、それは各個人の課題としてこれから考えていくべきことであると捉えています。
おわりにこのようにして振り返ってみると、私達にとっての最大のテーマとは、「3人でしかつくれない卒業設計」であったのだとわかります。もし私達の計画に何か力のようなものがあったとするならば、それはテーマ性でも、デザインでもなく、異分野の学生が毎日喧嘩しながら作り上げたという、一種のエネルギーの他にはよらないと思います。
卒業設計では多くの先生・先輩方に指導の機会を賜りましたし、たくさんの後輩達が提出のために力を貸してくれました。そして、レモン画翠様をはじめ、多くの方々に発表の機会を与えていただきました。この場を借りて御礼を申し上げます。(文責:風間 健さん)