明けましておめでとうございます
2014年1月6日
慶應義塾大学 瀬川明日奈さん 卒業制作を振り返って
2014年1月28日

法政大学 南 由佳さん 卒業制作を振り返って

第36回レモン展出品作品の中から法政大学 デザイン工学部建築学科 渡辺真理研究室 南由佳さんに制作中の思い出などを振り返っていただきました。レモン画翠では出品パネルの一部を店舗ウインドウに展示しております。ぜひご覧いただければと思います。(2014年1月)


卒業制作を提出してから早8ヶ月が経過しました。あの奮闘した日々が今の自分の力になり、それまで設計に対して消極的だった自分が、卒業制作を経て積極的に設計に取り組むようになったのも、卒業制作が1つの転機だったのではないかと思っています。自分のターニングポイントとなった卒業制作について、5つの時期にわけて振り返ってみようと思います。

取り組むまで
私の大学は、卒論を提出してすぐ卒業制作に取りかからなければならないので、卒論と同時に卒業制作も考えていかないといけません。しかし、なかなか思うようにいかず、卒業制作のゼミが始まっても何も決まっていない状態で、研究室の中でも私だけが乗り遅れていたので、焦りと不安が募る一方でした。

敷地選定(10〜11月)
もともと街をふらつくのが習慣で、通学や買い物にいく途中でも、毎回違う路地を歩くのが好きで、迷走している間もいつもと同じようにふらふら散歩をしていました。そんな中で、私が上京してからずっと住んでいる新宿区の曙橋周辺は毎日歩いていて、坂や階段が多いなあと感じていたことを思い出したのです。気にかけてみると、この街にはもっとおもしろい発見があるのではないか?と思い、曙橋近辺は四谷荒木町から曙橋、そして牛込界隈に向けて歩くと、高低差が激しく、坂や階段がとにかく多く存在する街であるということに気付きました。特に、山手と窪地をつなぐ手段として使われている階段というインフラ機能が、道でもあり、あるいは建築でもあり、階段に建築の可能性を感じました。そこで、階段を使って何かこの街に還元できないだろうかと渡辺先生に相談し、「まずは敷地調査をしてから、プログラムを決めよう」ということになり、敷地を調査するに至りました。


サーベイ(11月〜12月)
敷地調査は、まず曙橋やその周辺に階段がいくつ存在するかを調査するところから始めました。市ヶ谷〜曙橋〜牛込柳町を歩き、私が調査したのは11ヶ所の階段。その中でも、通行量の多い階段が「念仏坂」という階段でした。念仏坂が存在するあけぼのばし通りは、周りに学校や住宅が多く、人や車が通る道路をはさんだ両脇にはスーパーや商店などが軒を連ねる商店街です。毎日商店街を通り、念仏坂を利用してわかったことは、窪地にある商店街と山手にある住宅街とを結ぶ念仏坂は、老若男女がつらそうにこの階段をのぼっていたことです。それをきっかけに、敷地は念仏坂にしようと決め、それから階段の歴史背景や調査を始めました。

プログラム決め(12月)
敷地を決めて、調査を始めたのはいいものの、さてプログラムはどうしよう?と悩みました。商店街と住宅街をつなぐ階段に、何を持ってくるべきか、そしてそれが人々に必要であるか、などと考えていくうちに、また迷走をするようになりました。もやもやしていても考えはでてこないので、一回リセットしようと思い、4日間くらい地元へ帰りリフレッシュすることにしました。それが功を奏したのか、地元から帰ってきて、たまたま敷地を通ったときに、プログラムなんていらないのではないかと考えました。図書館や美術館、公園などといったプログラムはこの階段にもこの空間にも必要ない、だったらこの街に足りないものをつくろうと決め、商店街と住宅街の間にある階段に人々の集う場所、憩う場所、にぎわう場所を設けることで、階段と階段のまわりの空間が商店街と住宅街を緩衝するものにしたい、という漠然とした思いで設計に入りました。そして、階段は現状のものが不便かつ危険であったので、階段もリノベーションをするということも設計の1つの軸にありました。

設計(12月末〜1月)
卒業設計の提出が1月末なので、設計をこのころには終わっていないとまずいと思っていました。私はとにかく全てが遅れていたので設計で巻き返すつもりで、それからは毎日のようにスタディ模型をつくり、ときどき先輩方にエスキスをしてもらったりすることで、何とか最終段階のプランまで持っていくことができました。配置やゾーニングに関しては、階段をどううまく活かすか、そして商店街と住宅街にいかに開けた空間にするか、老若男女が利用する空間の為のスケール感はどうするかで、すごく悩みました。しかし、念仏坂を毎日歩いていたことによって、設計した空間のイメージがつきやすくなり、スタディから設計へすぐとりかかれたのだと思います。


制作(1月)
設計を終わらせる予定だった12月末に設計が終わらず、結局、設計と平行させながら模型制作をしていきました。敷地模型1/500と本模型1/50で表現することにしたのですが、当時は、表現する箇所が多いというのと、自分の身長より大きい模型だったので、1/50にしなければよかったと思って後悔ばかりしていました。しかし、あのスケール感は今後一生できないものであると同時に、卒業制作の表現として上手くできた1つの要因ではないかと今となっては感じています。

模型制作は全て自分自身で最後までやり遂げようと意気込んでいましたが、さすがに全て一人で作ることは難しかったので、後輩や友人を呼んで、模型の添景などの制作を手伝ってもらいました。自宅まで来てくれて私の無茶なお願いに応えてくれた友人や後輩たちには、今でも感謝しています。時間に追われて、少々未完成なところや納得のいってない部分も残したまま提出をしたため、先生方にご指摘を受ける部分がたくさんありました。とにかくがむしゃらに突き進んでいたため、沢山の反省点は提出した後に見えてくるものでした。

終わりに
こうして冷静に作品を振り返ると、自分の原点であり私の転機となった卒業制作は、まだ終わっていないし、これからも続いていく課題であると思っています。この卒業制作では、多くの先生方にご指導や講評をしていただき、そして支えてくださった渡辺先生や先輩方、家族や友人、後輩達にはいろいろな場面で助けてもらいました。また、こうして卒業制作を振り返る機会を与えて頂いたレモン画翠様をはじめ、さまざまな場所で発表の機会を与えてくださった皆様に厚く御礼を申し上げます。