ESSAY
創業者によるエッセイ
この度、芸大内に生協売店が出来るのについて、従来の売店は早急に立ち退けというお話が出まして、目下その問題について、私は日夜苦慮しております。その間に多くの方々からいたわりのお言葉をいただき、卒業生の皆さんにも、ご心配をいただきましたし、遠くパリやローマからまで、お問い合わせのお手紙をいただきました。前途真暗闇の中に光明を得た思いで、心から感謝しております。けれども、時には、おやじ、いつまであんな小さなところにしがみついているのだ。さっさとどいてしまえ、というお言葉をいただくこともあります。これも又、私の身を思って下さるいたわりの言葉と聞いてはおりますが、私はこの際、芸大売店と私との関係をふりかえり、整理して、今後の方針を立てたいと思い一文にまとめてみました。もしおひまの折りにお読み下されば幸いと存じます。
芸大売店と私
今井鐡次郎
私が、洋画材料商というこの道に入ったのは、16才の年でありました。以後50余年、共に協力し、あるいはライバルとしてしのぎを削り合った友人も殆ど世を去り、今ではこの業界で私が最年長者になりました。戦前、私の最盛時には店員を20名以上使い、フランス・ルフラン社、英国ニュートン社からは直輸入、アメリカ・グランバッハ社には直輸出を行っておりましたし、都内のほとんどの画材店と契約して、卸業を営んでおりました。
ところが戦争が始まって、物資がなくなってくると、美術関係の材料は非常に逼迫し、私も業者を代表して、商工省(今の通産省)や農林省に通って、種々懇請もしましたが、当時の国情では、美術どころではなく、やがて大勢いた店員たちも一人二人と応召していなくなり、そのうちにお茶の水にあった本店、新宿にあった支店(当時画翠と名のっており、二幸の裏にありました)が強制疎開の命令を受けて、私の商売はどうにもならなくなりました。
私が芸大内に初めて売店を持ったのは昭和8年でした。当時、昭美堂という文具屋さんがやっていたのですが、専門的な知識もないし、思うように学生さんの要望に応えられないから、私に引き受けないかというお話がありました。私は当時のお金で2,500円という権利金を払って、名前はそのまま昭美堂をひきついで、私の売店といたしました。2名の店員を派遣しておりましたが、学生さんはなかなかよく利用して下さったようでした。
今でも古い方に、あのころの店員はどうしたかときかれることがあります。
2名は戦死いたしました。
本支店が強制疎開の命令を受けました時、大学の売店はまだ無事でありましたので、大学にお願いして、商品を置かせていただきました。もう運送も思うに委せず、倉庫もないので、焼けてしまっても仕方がないと思っておりました。ところが、幸い芸大の校舎は焼け残りました上に、戦後私が来て見ますと、商品は何ひとつなくなりもせず、そっくりそのまま残っておりました。当時は、校舎には大勢の学生さんが住んでおりましたし、物がなくて皆困っていた時代でしたのに、売店の商品には指一本触れられてなかったのです。あの頃は世の中は荒廃しておりましたが、戦地から戻り、あるいは地方から上京して上野に集まり、美術を勉強しようという学生さん達は、理想に燃えていて、商品に手をつけるなど(しかも誰のものとも分らないのに)、夢にも考えなかったのだろうと思います。
ところで、私も戦後は、職業もなく、頼みに思う店員もひとりもいなくて、呆然としていましたが、ある日思いたって上野の山に来て、商品を見た時、何か救われたような気がして、ここで仕事を再開しようと思い立ったのです。当時は武道場を仕切って、復員がえりの学生さんや、住むところのない学生さんが寝泊まりしており、みんなぼろぼろで、何とも異様な風景でしたが、先程も申しましたように、日本が新しく文化国家として発足する時でもあり、長い間美しいものに飢えていた若い人たちは、実に若々しい理想に燃えていました。私も商売も何もだめになり、途方に暮れておりましたので、この若い人たちの姿を見て生き返るような気がいたしました。
そのころは埼玉県に住んでおり、東武電車で2時間以上もかかりました。食糧難の時代でしたから、買出し客や闇屋で電車は殺人的な混み方で、50近い私にはかなりの労働でした。それでもいつしか私には上野に行くのが楽しみになり、毎日張り切って通うようになりました。市中には画材店といっても1,2軒しかなくて、商品もほとんどありませんでした。キャンソンというフランスの木炭紙なども、1枚10円出してもなかなか手に入らないという有様でした。しかし幸い私の店には戦前のストックがかなりありましたので、昔の仕入れから割り出して10銭という価格でお売りしました。絵が描きたくて描きたくてたまらない学生さんの気持ちを考えると、とても儲ける気になれませんでした。ほかにも、いろいろの高品がありましたので、すべて破格の価段でお売りしましたので、学生さん達は並んで買ってくれました。一人でも多くの学生さんに使ってもらいたくて、一人一品ずつお売りしたからです。
今も思い出しますが、キャンバス(画布)なども、全然ありませんでした。油絵科の学生さんにとっては、キャンバスは欠くことの出来ないものなのです。いろいろ調べた結果、材料になる亜麻仁油と麻の布を、農林省が持っているのを嗅ぎつけました。私は農林省に日参して、その材料の払い下げを受けることに成功しました。私はそれを浦和にあるフナオカキャンバス(日本一のメーカーです)に持って行って、造ってもらい、大変安く学生さんに分けてあげることが出来ました。私は戦前、キャンバス工場を持っていたことがありましたので、キャンバスの製法は良く知っておりました。余談ですが、大学でキャンバス製法の講義のありました折りには、僭越ながら、先生にいろいろ秘けつをお教えして喜ばれたこともありました。
そんなふうで、私はだんだん学生さんたちと親しくなり、昼休みなど、私の小さな店は満員の盛況となりました。私は埼玉で手に入る食材を持って行き、学生さん達も手に入るものを持って来て、そこで分け合って食べたりしました。衣料なども、幸い私のものが焼け残ったので、それを持って来ては着てもらったりしたものです。昼休みパーティーはすっかり定着して、食料が豊富になってからも、学生さんたちが集まってそばをとるとか、時には私がおごるなど、それはにぎやかなものでした。その間に、私が小僧の時代から覚えたいろいろの商品知識を披瀝し、ついでに人生経験も披瀝して、時には学生さんの身の上相談に乗ったり、アルバイトのあっせんをしたりなどして、いつしか学生さんたちは私の店を昭美堂大学などと呼び、ここを卒業しなけりゃ芸大卒業の免状はもらえないぞ、などと冗談を言い合ったりしました。
次第に世の中も正常になり、私の業界も復活いたしました。業界の方からは、今井さん、いつまで学校の売店なんかやっているのだ、早く外に出て、昔の経験を生かして大きな商売をやりなさい、などと言って下さる方もあり、又そんな機会に恵まれたこともありましたが、私はやはり学生さんたちといるほうが楽しいので、外に出る気はないと言い続けました。息子を持ったことのない私には、学生さんが息子のように思われると、家内にもよく言ったものでした。戦前には、事業の一部としか思っていなかった芸大の売店が、私には、事業以上の心の支えとなったように思われました。
画家というものは、特殊な方を除き、材料についての知識はあまりお持ちにならないものです。そのために、折角良い作品を描いても、それが早く変色するとか、絵具が脱落するなど、思わぬ不幸が起ることがあります。その点、私は小僧時代から大家の先生方に接する機会も多く、いろいろ見聞したり、又自分自身、研究もしておりましたので、学生さんには、かなり材料面での助言をさし上げることが出来たと思います。又、私自身の性格として、これは良いと絶対に自信の持てるものでないと売る気になれませんので、時には、おじさんのところには新しいものがないな、と言われることもあります。しかし私は今でも目新しいものをやたらに並べて人目を惹くことが嫌いですので、その点は、今ふうの商売のやり方にそぐわない点があるかもしれません。その代り、キャンバス一枚、筆一本、自分の納得のいくものでないと売らないようにしております。しかし、今日では、新製品が渦を巻くように続々と発売され、又外国製品も次々に輸入されます。これらの商品を常に吟味し、その特性、長所、欠点を知って、良い便利なものを消費者に紹介するのが、私共商人の義務だと思います。今でも、新商品が出来る時には、メーカーは必ず私のところに持って来て助言を求め、私も、それらの商品を、自分の経験から得たものさしで計るだけでなく、教授の先生方にもお見せし、批判もいただいて、その商品の信頼度を高めるよう、努力しています。これには、商品に対する愛情が何よりも必要なので、失礼ながら儲け主義や、片手間仕事では出来ないと思います。
先日、ある大家の古い作品を見せられ、その真偽が問題になっているが、どう思うかときかれました。私は、芸術的な評価については何とも言える立場ではないのですが、その紙を見ますと、ビタロンという、大正三年ごろに輸入されたフランスの紙であることが分りました。これは作品の真否を決定する上にかなり重要な手懸かりとなるもので、こんなものを知っているのも、今は私一人になりました。これに類するような、材料に関する質問は今でもよくありますが、そのような時には、教授方もよく私のところにお見えになります。又、特殊な材料をお求めになる教授も多いので、それをさがしたり、ない時にはメーカーに特別に造らせたりするのも、私の重要な仕事です。
私は16の時からの商人であり、根っからの商人であります。しかし、幸い私の商売がら、芸術家の方々のお相手をつとめ、たくさんのお友だちも出来ました。私は自分と対照的な芸術家気質が大好きです。幸い、私の気持はそういう方達にも分ってもらえて、毎年、私は芸大の若い助手の方達の旅行会に誘ってもらいます。芸大は、いわば私にとって第2の故郷のようなものと言ったらよいでしようか。今でも、私の店には古い卒業生がよく訪ねて来られます。教授も変わり、教室も変わり、知る人もない芸大の中で、昔通りなのはおやじの店ばかりだと言って、寄っては昔話をして行かれます。誰さんがどうしているとか、誰さんはどこにいる、などの情報は、おそらく私が一番通じているのではないかと思います。又、留学した学生さんや画家たちも、外国で集まると必ず、共通の話題としておやじのことが出るのだと言われ、私は小学校の先生にでもなったような嬉しい気持ちでそれを聞きます。
私は、健康で働ける間は働いて自分の生活を守ることを信条とし、3人の娘たちにも、常にそのように言い暮して来ました。50年以上もこの道に携わって来た私の、これが生活信条で、又、芸大の売店は、ささやかではありますが、私の城と考えているのです。